大仏が変だ

  
  

みんなは寺を知っていると思う。
法事や、供養を行うのが寺だ。

教会と寺について言われている、食べることができなくなった人が、
最後に行き着く場所という話についてもうちょっと考えてみた。

仏像が最後を看取ってくれるというのである。
寂しい孤独死を神様が看取ってくれるという考えだ。


それもそうだが、仏像は国宝だ。
隣で座ってくれる木像にこだわるのはなぜか。

宵明けの青空には読んでくれただろうか、宵明けでは教会の奇跡の答えだけが科学で、
他は異端。つまり宗教とされると書いた。
その一方で、神様がいたら困る教会、神様がいたらいいなという民衆の心は、
教会の奇跡を起こした犯罪者による話に宗教の始まりを見るということだ。

もし、そんな話が寺にもあるとしたら、
仏像の持つ意味は違ってくる。

そう、耐震ダンパーこと、スーパーヘテロダイン検波器、あるいは、
パラメトリックスピーカーじゃないのか、というのだ。
仏像に念仏を唱えると、みんなに聞こえるのだ。

教会も何かあるはずだ、懺悔すると聞こえるのだ。

今も昔も刑務所があり、喋れない場所があるならの話だ。
下世話な話かもしれない。

反省をすると喋れるようになると聞いたことがある。
反省をしないといけないのは僕なのだろうか。

それにしても、認知症なんてあっては日本が滅びてしまうのに、強情である。   

2026 06 30 遠藤隆昭